U-MAIL(ウンコ通信) 2001/12/07
「NYテロ・余波」 (10)
えー、続けてヨコ文字タテにする落穂拾い作業いくつか。
「タリバン去って、ケシ戻る」
〜WITH TALIBAN GONE,OPIUM FARMING SPRINGS BACK〜
by TIM WEINER (NEW YORK TIME SERVICE)
春になれば、アフガニスタンは、ポピーポピーの花盛り、に戻れるかも。
「今がケシを植える時期なんじゃ」と54歳の農民、アブダル・ワキルは言う。
「今年、ここらあたりじゃァ、村の400家族がケシさ作ってるだ。ケシさ集めて袋さ入れて 金曜の市場に売りに行くだ」「ほかに生きるテダテはねェだ。子供は10人居るし、家族全部では28人にもなる」
ここら辺では、農業以外に生活手段はない。しかし小麦や玉蜀黍ではとてもじゃないが、食って行けぬ。ケシ栽培だけがカネになる。1999年には、アフガニスタンのケシ原料収穫は世界一、450,000kgあった。2000年にはそれが、タリバンによる禁止で、18,000kgに減った。
しかし、アメリカと北部同盟がタリバン駆逐すれば、1、2年内には、世界のヘロイン市場トップの位置に戻れるだろうと。
バイヤーは、キロ$200で買ってくれる。フルーツY野菜の100倍の値段。アブダル・ワキルは言う。
「俺たちゃ頑丈でよっく働くだ。だけんどここにゃァ工場も仕事も無い。アフガニスタンになんか産業作ってくんろ。そうすりゃ、ケシから手を引くだ。これがおらのメッセージだべさ」
ケラバードの22才のオバイドゥラは言う。
「去年、1ヘクタールの土地にケシ作って、$13,000儲けただ。これで15人の家族養って、耕作牛2頭手に入れた。同じ土地に小麦や野菜作ったら$100がせいぜいだべさ。それにここらは4年続きの大旱魃でよ、野菜や穀物はダメだけんど、ケシは旱魃に強いんだわさ」
ジャハラバードで誰もなりたがらないヤク物コントロールの役人務めるシャムシュル・ハックは言う。
「何故ケシ作っちゃイケナイのか誰も農民に説明しない。世界がなんとか助けてくれなけりゃ、農民は畠だけじゃなく、屋根にだって、植木鉢にだってケシ植えちゃいますよ」
「9/11が、沿岸警備隊の役割変えた」
〜COAST GUARD'S ROLE SHIFTED ON SEPT.11〜
by EDWARD WALSH (WASHINGTON POST SERVICE)
えー、つまり、沿岸警備隊の役割が、「守備第一」に変わったということ。第二次世界大戦以来の、港湾安全管理強化が成されている。
NY港から、一日186,000の人間が、マンハッタンに出入りする。航空機アタックの例から、同様に危険な爆発物を海上に探せば、「石油タンカー」ということになる。
さらに、海岸沿いにある68ケ所の原子力発電所。これが危険。
毎年1700万個のコンテナが運び込まれる「港湾」の防御。船舶の入港予告が、24時間前から、72時間前に変更になった。
まァ、どーってことはないのだが、「橋」が次の標的、なんて言うオクソクもあったりして、アメリカは「空」だけでなく「コロバヌサキノ水際」にも気を配らねばならなくなって居るということ。
「戦時下の暮らし」
〜LIFE DURING WARTIME〜 SEP.24/2001(TIME)
by DORIS KEARNS GOODWIN
えー、これはNYテロの次の週、タイム誌に載ったエッセイ。ドリス女史は、F.D.ルーズベルトの研究者。大トーア戦争時期のルーズベルト大統領と銃後の国民生活についての「NO ORDINARY TIME]の著者。サブタイトル風に、「ルーズベルトの教訓:過ち犯した人々を責めない、生活習慣を変えない」とあって。
テロに対するアメリカ世間の反応が過激化してくる前の段階での論説だが、「正論」でありまする。この時点では未だ、小ブッシュも、ドリスさんの期待通りに、常識的行動を見せていたのだが。今思えば。
ドリスさんのこの一文の中には、ワメの知らなかったいくつかのエピソードもあって。とにかく、この時期に、こうした落ち着いた物言いが為されていたことを、ココロに留めて置きたく。一応全文ご紹介しておこう、意訳誤訳ガラミで。
ルーズベルト大統領の、パールハーバー時のリーダーシップを想い出す時、われわれは、彼が秘書に一字一句書き取らせた有名な言葉を真っ先に考える。
”昨日、12月7日、1941/ハレンチが始まったこの日…”
だが大統領のリーダーシップは、ビックリアタックの起こった日曜、かれが教書を発した翌月曜だけでなく、それに続く長い困難な日々を通してギリギリに試されて行く。
今回同様、アメリカの地域的安心感が、打ち砕かれたのだった。デマが飛び交った:日本はロスアンジェルスを爆撃しようとしている、サンフランシスコはもうやられた、などなど。
大衆だけでなく、政府内にも、海軍がやられて防御力の弱まったアメリカ本土に日本軍が侵入してくるのでは、という切実な恐怖感があった。
パールハーバーと先週火曜のアタックとは大きく違う。パールハーバーでは日本軍は軍事施設を目標とした;先週のテロリストどもは、旅行中の航空旅客、執務中のオフィスマン、路上通行者、といった一般市民を狙った。
パールハーバーの時は、テキはハッキリしていた。アメリカの歴史はそのような危機の際には、決意と団結が、絶望感やヒステリーへの強力な武器になることを教えてくれる。
パールハーバー以後、象徴的行動も、物質的準備と同様に、重要になった。海外での戦いに勝つためには、家庭でのアメリカ式自由を守るしかないことを、大統領夫妻は身をもって示した。(日本の)襲撃の一週間後、シークレット・サーヴィス(財務省秘密検察局)は、ホワイトハウス安全管理のリストを提出した:ビルにカムフラージュを施し、屋上に機関銃を設置し、天窓を砂と錫で覆う。ルーズベルトはその殆どを却下した。一世紀前にリンカーンが、南北戦争の最中にあって、キャピトルドームの建設実行を主張したように、首府はビクともしないことを示したかったのだ。
同様に、ブッシュ大統領も、あの火曜日、その日のうちに、ノーラッド地下壕を出てワシントンに帰ることを選んだ。金曜日には、国民哀悼式典を主宰し、イスラム教指導者も含め、人種、信仰を超えて、人々にそれぞれ重要な役割を与えた。
パールハーバー後、西海岸を訪れたエレノア大統領夫人は、日本人二世に向けられた病的ヒステリー現象を調査する立場を取った。政府官憲は日本人の銀行、商店、住居を抜き打ち調査した。偏見の流れに逆らって、エレノアは、寛容を呼びかけ、日本人二世と並んで写真に収まったりして多くのカリフォルニア州民と敵対した:ロスアンジェルス・タイムス誌の編集局はこれに怒り、彼女に公的生活から強制的に手を引かせようとした。
わがファーストレディは、より一層の公平さこそ大切なのだと反論した:この緊急時にあってなお、信念に沿って生きることが出来ることを示すことが、われわれの最大の義務である、と。
合衆国は後になって、(日本人二世)抑留所に関して、この主義主張を貫き通せなくなるが、でもこれは、記憶に留めるべきことだ。特に、あのテロアタックに歓喜するパレスチナ人たちの映像が、アメリカ国内のアラブ二世への怒りを買っているとすれば。
いろんな点で、ジョージ・ブッシュが当面している問題はルーズベルトの時より大きい。ルーズベルトといえば、あの大不況の中からアメリカを引っぱり上げ、圧倒的人気で3期目を務めている大統領だった。彼は早急で具体的な手を惜しみなく打って、パールハーバー後の沈滞の日々からアメリカ人を活性化したのだ。武器が作られ、資源が貯えられ、兵力が結集された。今週、ワシントン周辺とニューヨーク市では、殆どのアメリカ人にとっては、献血するぐらいしか、出来ることがなかった。
今日の危機はそのような日常的な行動を英雄的にする。テロリズムは、日常の場を戦場に否応なく変える。これからの毎日、アメリカ人が行使できる最も勇気ある行動とは、日常生活を続けることだ。航空機やエレベータ−に乗り、英国人が空襲下でやっていたように毎朝仕事に出掛けることだ。
今、ブッシュは、われわれが滅多に経験できないナニかを示すチャンスを手にしている:アメリカとは単なる抽象的な存在ではなく、ワレワレひとりひとりが、それぞれイノチの一部分としての実在であるという感覚を。
1941年のクリスマスイーヴ、ルーズベルトは、シークレットサ−ヴィスの反対を押し切って、ホワイトハウスのクリスマスツリーを点灯すると主張した。彼の演説を聞くために集まった15000人の人々にとって、それは忘れられない一夜になった。三日月の明かりと、ワシントン記念碑の赤い灯りと、クリスマスツリーの輝きの下での演説。
テロリズムに反撃し、われわれの空と家庭を守るに当たって、われらのリーダーとわれわれに課せられた闘いとは、いかなるテロリストグループも、この自由とデモクラシーの灯台の火を消すことは出来ないことを、示すことだ。