U-MAIL(ウンコ通信) 2003/08/05 


えー、「ヒロシマの日」がメグッテ来る。ワメの世代は「新型爆弾投下」という新聞見出しが、ハッキリと記憶に残っている。しかしアレから58年、年中行事になってしまった「ヒロシマの日」のココロの中での風化はイナメない。

8月は、本来なら毎年、野坂サンの月。「火垂るの墓」「戦争童話集」の作者として、アチコチに引っ張り出され、あの「戦争」についてナンヤカヤ、熱っぽくカタル姿がメディアに流れるのが常。

しかし今年、夏の主役は、6月の軽い脳梗塞から未だ完全には回復せず、ファームで調整中。あの独特の語りが聞けず、この夏、日本中がドコカサビシイ。

で、30数年、野坂ソングの「座付き作者」として、周囲でチョロチョロしてきたワメとしては、その大きなアナの「埋め草」を、イササカなりとも供出いたしたく。オコガマシクも。

これまでに、ワメがワメなりに主体的に関わった「原爆」についての表出物を2点、ご披露申し上げる。

1ツは、昭和29年(1954)、「造船疑獄」「自衛隊発足」「日本民主党結成」の年に、南太平洋ビキニ環礁での米国「水爆実験」の犠牲となった「第五福竜丸」に取材したワメの「新聞詩・ビキニのうた」

もヒトツは、1983年、「あたらしい・こどものうた」の1曲としてステージにも上げた児童合唱曲「HIROSHIMA地方の手まり唄」 これは発表直後に毎日新聞の学芸欄だったかに、かなり大きく紹介されたシロモノ。


「ビキニのうた」

第五福竜丸は/焼津を母港とする/マグロつり遠洋漁船であった/乗組員二十三名/九十九トン/一月二十二日焼津出港/ミッドウェー付近海域で操業していたが/不漁のため次第に南下していった/そうして/とき三月一日午前三時/ところマーシャル群島ビキニ環礁東方八十マイル付近/南西方水平線に突如/赤輝白色セン光/大キノコ/大大キノコ/そうして/チャーチルを泣かせ/真っ白な/真っ白な/死の灰が/二十三人の上に降った/その中性子の雨/ルビジウムの娘ストロンチウム90は/サンゴ礁のカルシウムをともない/船員たちの体内深く吸入った/船員たちは何もしらない/真黒になり/原子マグロをたべ/灰のついた手でタバコをくわえ/白血球のバランスをうしなって/帰ってきた/驚いた/港にはガイガーガイガーガイガー/ガイガーカウンター/夜光時計光り/世界でたったひとつしかないこの船/死の灰の正体/学問に国境はない/でも/モルモットやだよ!/漁夫は全身の毛をかられ/マグロは腹にFをおされ/トコトン トコトン トコトン/広島の五百倍のトコトン/ペスト、コレラ、伝染病じゃ/このマグロ食っていいだかね?/家族の生活は村八分/オロオロ/自分は病気で目ばかりをギロギロ光らせ/三度目のモルモットの涙/そうして/ニ十三人の命を救うため/アメリカから特効薬が送って来た/でも日本とアメリカは遠い/とおいい/サンゴ礁の上を通るとき/ちょっとした手違いから/クスリは/きれいなきれいな/緑色の/サボテンの葉っぱに/かわっていた。


ウム。これはヒロシマから9年後の事件。半世紀経った今、チョットばかりイミが出て来たかも。

これはワメが自分のコトバで書いた「詩」ではないのだよ。当時これを報じた新聞記事の中から拾ったフレーズを切り抜いて構成した、いわばジャーナル・コラージュ・ポエムとでも言うべきシロモノ。

ドジなハナシだが、記事を拾った新聞が「朝日」だったか「読売」だったか「毎日」だったか、あるいはそのミックスだったか記憶が無いのだ。

事件自体がショッキングだったためか、通常の報道記者のヴォキャブラリーとはヒトアジ違った個性的な表現に興味を感じてのココロミだった。

3ミリ幅ほどの新聞活字の切り抜きを、モールス符号まがいに、黒い台紙に貼って行く作業に3日ほど経ったオボエがある。

世間ナミにイササカの反米反体制心情抱いた、当時大学1年生のワメの、詩人気取りの行為だったと言えばいいか。

後に銀座YATA屋で表装したこの「作品」は、今でもワメの仕事場の壁面に、スッカリ煤ボケて架かっている。ワメのエッセイ集「オノマトピア」の中に、採録してあるが。


Real Audio ファイル「HIROSHIMA地方の手まり唄」

作詞・能 吉利人
作曲・桜井  順
唄・東京放送児童合唱団

ピアノ・斉木ユリ
ヴァイオリン・玉木宏樹

タダ、聴いてみて下されませ。Real Audio ファイル をクリック


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