U-MAIL(ウンコ通信) 2003/11/23
大書評:「逢魔が時」
中野 純 ・文
中里和人・写真★平成15年10月10日初版第1刷発行 発売元:ピエ・ブックス
定価(本体2400円+税)
えー、シホン主義出版ブンカの、致し方ないヒトツの帰結である「バカの壁」とは全くチガウ次元で、この書は、この国の「野」や「里」に潜むノーコー民族の官能を足元から掘り起こすべく企まれた「中々」の名著である。オワカリカ?
さるすべり・中野の、ベタ足トレッキング&ホーミー式ブンガクは、読み手の飼っているペダン鳥をソコソコに挑発する。以下、この挑発によって積年の便秘を解かれたウンコ群の羅列。脈絡無く。
この書のテーマをワメ流に読み解けば、朝日信仰の明治ERA以来、日本人の生活の中心から外されてきた「月」の復権ということ。詩歌の伝統を遠く遡れば分るように、モトモト、日本のブンカは「月」中心であって、太陽などは月の照明係に過ぎなかったのだよ。有り難い「お天道さま」てのは太陽とはチガウので。
夕焼けは、一日のオワリではなく、月の露払い。「振り返ると。東の山の上に大きな月。さあ、一日が始まった。今日も元気に寝よう。」と言うのが中野式。
ワメの偏見によれば、近代の「太陽」は、モッパラ生産力のシンボル、功利主義の旗印であり、ユケユケドンドンの西欧シホン主義の偶像に祀り上げられておるのだよ。スベテをテメエの黒点の中に呑み込んでしまうユニラテラル・エネルギーのお化けなのだ。
今のアメリカはマサに太陽信仰型帝国主義国家。月信仰のアラブと相容れるワケがない。テロがナンタラカンタラ言う筋合いのものではない。アレは立派な宗教戦争なのだよ。
「もっと光を」てのは、ドイツ的ヨーロッパ人の南イタリアへの憧憬としてならば了解出来るが、世界のスベテをテメエの目ン玉で隈無く見届けようってセイシンの発露だとすれば、こんなバカバカしい空オソロしいことは無い。その線上にテメエを神の位置に置く「科学の傲慢」が発生する。この論理オワカリか?ワカンネェダロナァ。
「光」の傷を癒すには真正の「闇」が要るのだよ。手っ取りばやく言えば「祈り」だよ。ヒロシマ・ナガサキの傷を癒すのも同じこと。アマテラスの岩屋隠れも、同じような事情だったのかも。
西欧キリスト教にしても、かつてはキリスト自身より上位に在った「サンタ・マリア」というのは、月信仰だったんじゃござんせんか?父なる「太陽」による火傷を母なる「月」で癒すってこと。宮沢賢治の「オッペルと象」でも、工場主人の労働強化に疲れ果てた象は、革命を起こす前に、先ず、お月さまに助けを求めるのだよ。
その月ブンカが、マックス・ウェーバ−師の言う通り、キリスト教エネルギーが生産力に転換した宗教革命以来、テッテ的太陽暦ブンカにシフトしてしまった。
そのキリスト教転換エネルギーの先端が黒い船になって襲来してこの方、日本ブンカもスベテ太陽暦下のウィークリー・ライフにどっぷり漬かってしまったのだよ。
教会に行くわけでもないのに、「日曜」に遠足日としての付加価値が付き、「月曜」はブルーマンデーとして、疎外される。このサベツにお気付きか?
別な言い方すれば、「朝」に「希望」を感じるのはワーカホリック。シホン主義被使用人根性。ブルーマンデーとはその副作用。
ワメの近代病跡日本史に拠れば、「夕日・夕焼け」は大正サナトリウム期のシンボル。これは「赤い鳥」を3ページも読めば納得出来るって。メロディはともかく、詞はサビシサとビョーキのオン・パレードなのだ。白秋、雨情、八十、詩人は競って「ココロのビョーキ」を訴える。ビョーキこそゲージツのモト。そしてその背景として、「この世の終わり」のシンボルとしての「大正夕焼け」がある。
長年の誤った思い込みによって、近代日本の輝かしきハジマリと信じられておる明治ERAは、ワメのイワユル「夜中に朝日ピッカピカ」(野坂昭如歌唱・花ざかりの森)であり、早いハナシが、このピッカピカは、外圧によるテンカン発作の典型。
ツマリ、明治は朝日信仰の富国強兵テンカン型ブンカ。大正は明治後遺症としての夕日信仰神経衰弱サナトリウム型ブンカ、そして昭和はデンキ照明によるセイシン分裂行進型ブンカ。
ではデジタル平成時代のパトグラフィーは?ウム。ここで、世界史の転回による、アラブ世界との接点が、「月」ブンカへの回帰のキッカケになるかもしれないのだよ。「逢魔が時」=「大禍時」とはソーユーこと、イラク絡みの「大禍時」が日本にとっての大いなる恢復期にツナガルやも知れぬ。多分ダメだが。
ハナシ、ズレにズレた。ここまで来たら、もっとズラそう。
今、ワメ等の生活の周囲に蔓延しておるビョーキのモトは、森羅万象すべてを白日のモトに曝し、観察し、記録し、蓄積したい、という得体の知れない欲望。一見それを可能にするかのように思われるインフラが出揃っているために、このビョーキが市民権を獲得しつつある。このビョーキのヒトツの特徴は、「視覚」が絶対的主役を奪っていること。A/Vと並称されるが、実際は「聴覚」は「視覚」に換算されているケースが殆ど。
そのシンドロームのヒトツが、テレビ・スポーツ番組での「リプレイ症候群」だ。たった今の「シュート」を直後にリプレイし、チョット置いてまたリプレイする。ドラマやルポ番組でも、CM直前のシーンを直後にリプレイしてから続ける。これは「視覚」のチック症状だよ。画面の会話をイチイチ字幕テロップするってのも「耳」より「目」を信じるって傾向のアラワレだ。
これはモシカスルト、娯楽ヴァーチャル世界の拡大と重なった現象かも。トリック画面シツコク見せられて、テメエの目ン玉が信じられなくなる結果、年寄りの明け方のトイレみたいに、繰り返して反芻しないと、安心できなくなるってワケだ。
テレビが代表する「何でも見られる」という疑似信仰から出て来るのは、「見えないもの」に対する恐怖と好奇心。それを安手に満たすのが「ホラー・オカルト」の類。
しかし、そんな人工的アナザ・ワールドではなく、テメエの身の周りにムカシから在る「チミモーリョー」の世界へ降りて行くことコソが、このシッチャカメッチャカ世界の中で自分を見失わない方法なのだよ、多分唯一の。そのキッカケが「逢魔の時」なのじゃ。
別の言い方すれば、目を瞑って、テメエの存在のシッポを、奈落の闇の底へタラシ、「集団無意識」へアースしてやる、ということさ。「集団無意識」ってのはアナタがワタシになりワタシがアナタになり、カレにもなる、という奈落の底の民俗共同体、その国の「神話・お伽話」の世界のことだよ。会社クビになり、家族離散し、ダチからも見放されても、そのツナガリさえあれば、ギリギリ独りで生きて行けるハズなのだよ。そのツナガリ無ければ、テメエの膝ッコ抱いてホンモノの自閉症、鬱病だ。クビ括るっきゃない。
よく「魔が刺した」という。魔の世界をオソレて、身をカタクするから刺されて、クダラヌ犯罪にカラメ取られるのだよ。逢魔時に「魔に身をマカセ」れば、身もココロも「生まれたて」のスコヤカサを取り戻せるって。
不可逆夕日の大名行列、大夕焼けに圧倒されよ。人生の功利を祈り込む「初日之出」など、象に食われて仕舞え。ウム。日の丸の夕日度というのが、今や切実なモンダイなのだ。これをワケワカラヌ結語と致そう。カンラカラカラ、大書評でござんした。