U-MAIL(ウンコ通信) 2003/12/26
「ワメの大風呂敷」 〜キジ大量殺戮と狂牛病のカンケイ〜
やァ、なんと言うピタリのタイミングだ。イラクにタタリ目のアメリカ本国の状況は、あの「9・11」に関して中沢新一サンが抉って見せた通りになった。ツマリ。
チェイニーが「家畜化」されたキジ70羽を殺戮して「狂牛病」を呼び出したのだよ。
これが「マクドナルド」の没落にツナガルことはマチガイ無い。フジタサンはイイ時マックと手を切った。
は、ナンノコトヤラ?ユルユルご説明申し上げる。
「9・11」を中沢新一は「圧倒的な非対称」なるコトバでマルゴト括って見せた。
一方には:集中され蓄積され媒介された力とシステムがある。そこで生活している人々を養うための大量の食料やエネルギーが運び込むまれてくる。毎日信じられないほどの数の家畜動物が殺されていっているが、ショーケースに並んだ肉からはそのことを想像させる一切の痕跡は抹消されている。「富んだ世界」である。(ワメ注・アメリカと考えよう)
一方には:あらゆる種類の直接的なものしかない。生活の全域は、まだ商品化や情報化されていない。人々は「役割」を生きているのではない。「神」は近くに居る。仲介者を必要としない。1日に5度でも何度でも神に向かい合うことが出来る。動物の殺害はサクリファイスのヒトツの形態であることは誰もが知っていて、その現場から目をそらさない。「貧困な世界」である。(アフガン、あるいはイラクと考えよう)
つまり、「富んだニンゲン」と「貧しいニンゲン」の圧倒的な力の「差」の「原型」を、「近代ニンゲン」と「野生動物」のカンケイの中に見ようとするワケだ。
そこに「宮沢賢治」の寓話が登場する。真正の仏教者、賢治はトックのムカシに、このカンケイを見抜いていたのだよ。
中沢サンが取り上げたのは「氷河鼠の毛皮」という作品。
イーハトヴ駅から北へ向かう弾丸列車「最大急行ベーリング行」の中にイロイロな乗客たちが乗っている。
450匹分の氷河鼠の毛皮で作った豪華贅沢な上着を着込んだ「大富豪タイチ」
モロッコ狐の皮で作ったと称する外套着込んだ「紳士」
黄色いジーンズの上着まとっただけの船乗り風「若者」
痩せた北極狐ソックリの顔して手帳にナニやらメモ書き込んでいる「赤ヒゲ」
夜明けに汽車は急停車。実はテロリストだった「赤ヒゲ」がピストル持って車内に入って来る。その後に各々ピストル持った「白熊」テロリスト20人従えて。
彼等は「赤ヒゲ」のメモに従って、毛皮着込んだ乗客を片っ端から告発する。真っ先に「大富豪タイチ」。「紳士」の毛皮は実は模造品だったので解放される。
その時。「若者」が電光石火、「赤ヒゲ」のピストル奪い取って人質にして、テロリストたちに向かって叫ぶ。
「おい、熊ども。キサマ等のやったことはモットモだ。けれど、オレタチ(ニンゲン)だって生きて行くには、キモノを着なきゃならない、オマエたちが魚を獲るようなもんだ。これからは、あんまり無法なことは気を付けるように言うから、今度は許してくれ」
白熊テロリストたちは了解する。そのあとナニが起こったのかはワカラナイ。
ニンゲンと動物の間に在るある程度の「力の差」については、狩猟民の神話の中に、次のような考え方が見出だされる。
「時々、動物たちは人間の村を客として訪問しようと思い付く。動物たちは、自分が着ている毛皮や肉を土産に山を降りて来る。狩人が仕留める動物とは、そうして訪ねて来た客人なのだ。
人間は、毛皮や肉を脱ぎ捨てたこれら動物の霊に、精一杯のモテナシをする。歓待されてスッカリ満足した動物の霊は、またの訪問を楽しみにしながら、動物の霊の世界に戻って行く」
ここでは、人間と動物の間に、まだ「圧倒的に非対称な状況」は作られていない。(一種の黙契というかゴッコが成立しておるのや)
その差が決定的になるのは、「動物の家畜化」が始まってからだ。(チョット古いが《植民地化》に置き換えてもイイ)
「家畜」になると、もう動物の都合や思いなどにはオカマイなしに、好きな時に動物を利用出来る。そうなると動物はもう主体性失った「客体」だから、「モノ」のように自由にその生命を扱うことが出来る。(ワメ的には《テッテ的》というコトやねん)
もはやテロの恐怖もないほどに安全で清潔な世界が出来上がって行く。市場には大量の肉がスムーズに供給され、屑肉の部分は肉骨粉に加工され、さまざまな食品の中に溶け込んで消費されていった。
こうして人間と動物の間の圧倒的に非対称な関係は、家畜の世界でユルギナイものとして確立した。人間は牛たちに同類の脳や内臓を飼料として与え、「共食い」させることによって、彼等の脳をスポンジにしてしまった。(西欧冷戦構造が大量の殺戮武器をソレゾレ後進国に与えて、不毛な内戦構造作り出したコトにナゾラエてもイイ)
この非対称の中から「狂牛病」が出現した。人間の食生活全体に、大規模なテロの一撃が加えられた。
こう考えてみると、「狂牛病」と「テロ」は、今日の文明の同じ病根から生じた、類似構造を持つ病理であることがわかる。
徹底した掃討戦によって、テロを根絶した世界というものは、ますます家畜の世界に似てくることになるが、家畜には家畜のやり方でのテロが可能であることを、狂牛病の発生は暗示している。(キジの仇をウシが討つってか)
テロ行為もまた、状況に本質的な変化をもたらすことは出来ないだろう。繁栄を誇っていたものに一時的な痛撃を与え、その日常生活に不安と動揺をもたらすことには成功するかもしれないが、それによって双方にもたらされるものは、荒廃のみ。
非対称を破壊しようとする「一神教的戦略」は、身動きのつかないジレンマに陥る。
えー、ここからは、ピッツバーグでのチェイニーの行動に照らし合わせて読んで下され。
世界にトリカエシのつかない非対称が出来てしまった時、人間と動物の間にアッテハナラナイ無理解の溝が発生し、人間の感覚は麻痺して動物たちに対して不作法や暴力を働くようになる。
動物を殺すのを楽しむようになったり、相手の苦しみもわからないまま、無神経に平気で狩りをしたり、必要を越えて動物たちに死をもたらそうとしたり、解体したあとの動物の体とか、食べ終わったあとの骨や屑肉や内臓などをゴミ捨て場に捨てたり、動物たちから生存の空間を奪っても、そのことに気付かなくなったりするようになる。
マサニ。宮沢賢治ほどでなくても、ワレワレ仏教徒の自然な感性の奥には、動物へのこうした迫害を忌むナニカが在る。
キリスト教のエネルギー転換派生物である「シホン主義」に、同意語と呼んでも差し支えない「デモクラシー」トカを添加して成立している西欧先進諸国の後進国への視線には、「動物視」風が有ることはウタガイ無い。
そのコトを気付かせるべく、「神」が「狂牛病」を与え賜うたのだよ。なァ、ワカルかい、マック?
ところで、賢治の寓話に戻って考える時、「白熊テロリスト団」を抑えてユルシを乞うたジーンズの「若者」とは誰か?この役を果たせるのは誰か?シホン主義の行き過ぎを冷静にチェック出来るヒトはドコに居てはるのや?
ライオン風髪型の紳士?ではないことだけはタシカだが。は。以上、大風呂敷オワリ。