U-MAIL(ウンコ通信) 2004/07/20-3
続々々・「ワメ的大評論」〜長崎・A少女殺人事件〜
えー、前回、この事件はインタネット上でエゴ肥大の極点に達したA少女が、その延長上の「脳内部屋」で司祭役ツトメてのB少女「処刑」だったと申し上げた。
で、今回は、A少女の実際行動に始動を与えたと考えられる「バトル・ロワイヤル」について。
大体、「バトル・ロワイヤル」なるコトバがワメの耳に入って来たのは、これを深作欣二監督が映画化、社会モンダイ化した時点。「少年同士が殺し合う過激ヴァイオレンス」に、社会良識がマユをヒソメた。と言う風な情報がワメの傍らを通り過ぎて行っただけ。今回の事件が無かったら、ワメが「バトル・ロワイヤル」を読んでみる、なんてことは先ず無かった。
読んでみてオドロイタ。これは、かのジョージ・オーウェルの「1984年」の延長線上に、作者がココロミた「寓話」ではありましぇんか。なのにダレもそんなこと言ってなかったじゃん。ホラー小説の選考会から、この作品がコボレた時にも、委員のダレも。モトモトこれはホラー小説なんかでは無いやんけ。
「手引き」風にと言うか、冒頭に4ケの「引用」がある。ワメが絵解き出来るのは、その内の2ツ、「生徒はミカンじゃないんです」と言う「3年B組金八先生」からの引用と、「隣のテーブルにいる誰かは、警察のスパイではないか」、これはオーウェルの「カタロニア賛歌」からの一節。
「1984年」ではなく、「カタロニア賛歌」から引用したのは、作者のペダントリーかも。たしかに、後に「動物農場」や「1984年」を書くキッカケとなったのは、オーウェルのスペイン内戦参加であり、そのルポが「カタロニア賛歌」なのやねん。
しかし、当時は西欧インテリ社会で、一種理想化されていた共産主義が、実はオソロシイ監視塔に囲まれた全体主義であることを見抜いたオーウェルの「動物農場」も「1984年」も、執筆直後には、大方の理解は得られなかったのだよ。ソ連の共産主義を否定したり、寓意の対象にしたり、オチョクったりするスタンスは、ウッカリすると誹謗の目で見られたのだよ、当時は。
ルポである「カタロニア賛歌」と違って、「動物農場」「1984年」は寓意を一種のSF小説に仕立てたもの。言ってみれば、テーマと構成はノッケからバッチリ決まって居り、後はいかにオモロク肉付け出来るかだけなのや。
で、ソ連生成時の政治家群像を、それぞれ動物に見立てた「動物農場」は「寓話」と言うより本質はソ連のアカラサマな「諷刺」だから、巧みに描かれてはいるが、イッペン読んでしまえば、ソコマデ。底は浅いのや。
一方、「1984年」は、スターリン式ソ連に代表される「全体主義」警察国家の未来を探ったモノと言えるが、どうしても抽象的にナラザルヲ得ズ、「小説としては失敗」と言われて居る。スターリンの鉄の雪が溶けてから、ゴマンと出てきたオソロシイ、ナマナマシイ内部告発情報に較べれば、「実感」ウスイのやねん。
設定としては、ウィンストンなる一市民が、四六時中、ドコに居ても、ビッグ・ブラザーと称ばれる顔の見えない「当局」に監視されて居ると言うハナシ。スベテは作者の「想像力・空想力」ダノミだから、どこかで一度シラケると、もうツイテ行けない、ということになるのや。つまり、「着想」だけが売り物、と言うシロモノ。「象を射つ」で見せたオーウェルのブンガク的描写力は、ドコヘヤラ、だ。
ハナシ大回りしてしもうたが、実は「バトル・ロワイヤル」も同じ。「着想」だけが取り柄。オモテムキには、「当局」が恣意的に少年達を「島」に集めてコロシ合いさせ、ただ1人だけ、「強者」だけがサバイバルする、という荒唐無稽な設定、あるイミでは「ロビンソン・クルーソー」譚の変形でもあるハナシ。
今世界で、実際に「1984年」型の可能性ある国と言ったら、北朝鮮位だろう。まァ中国も「党中央」はこの型だろうが。ハッキリ言ってしまえば、「インタネット」が「1984年」の設定を台無しにしてしまったのや。
だから「バトル・ロワイヤル」は設定としては時代錯誤、ナンセンスの極み。
ただ、作者・高見広春が、この「着想」に肉付け作業している時、この国で平行していたのは「オウム」の一連の事件。アサハラ王国のサリン攻撃が、平和な島の中に「1984年」の一種のヴァリエーション・モデルを提供して居たのやねん。
この事件との並走が、当時20代後半だった作者に気分の高揚を与え、42人という不吉な数の中学生のキャラクター書き分けるという気の重くなる作業を完成させたのかも。
結論:本来これは「着想」で終わるべきシロモノ、肉付け作業はムダなのだよ、ホントは。ホラ、こんな荒唐無稽なフィクション考え付いたよ、チョットしたブンガク・サーカスさ、オモロイだろが。と提出しておいて、自ら封印すれば、マコトにカッコ良かったのや。
一種の全体主義的軍事警察国家が、自己権力誇示のために主催する無意味な「サディスティック少年鍛練法」。これはオーウェルの「1984年」の応用問題。
そして国家権力をバックに少年たちを懐柔する教師のイメージに、良識テレビPTAご推薦、一見デモクラチックで物分かりのイイ「金八先生」のイメージを重ねた諷刺セイシンは秀逸。
だから、これは当然、活字「読み物」のカタチでだけ、公開されるべきものだった。コミックスや映画など、画像的イメージで補強すると「寓意性」は消えて、単なるB級ヴァイオレンスになってしまうのだよ。
しかし、作者としても、出版社としても、映画化などによるPR補強が無ければショーバイにはならない性質の作品。そこに、「バトル・ロワイヤル」のムジュンと限界があったのやで。
だから視覚イメージ・ルートで「バトル・ロワイヤル」世界に「ハマッタ」若年層読者、例えば「A少女」は、せいぜいが、作者が設定した、「国家権力のサディスティック装置に反抗・反撃するカッコイイ3人のヒーロー、ヒロイン」に感情移入するだけや。そのドラマのウシロに有る、作者の「寓意」にはトテモ理解が届かないのだよ。でも繰り返し申し上げるが、「寓意」に届かなければ、この作品は「単なるヴァイオレンス」のモデルを提供するだけ、それをナゾってみたい欲望シゲキするだけ。
臨床心理士の矢幡洋氏の、A少女のサディズム分析(中央公論8月号)によれば今、「小学生から実社会に至るまで《女の世界》は、群れてグループ単位で行動する傾向が強化されている」ので、「一匹狼」のスタンスは不可能になった。選択肢は「上に逃げる」か「退却するか」しか無い。ツマリ、勉強か運動でトップを取り、グループ内で「アンタッチャブルな存在」になるか、「不登校・引きこもり」でヌケるかしか無い、と。
で、A少女の「バトル・ロワイヤル」の読み方は、アンタッチャブルなサバイバル・ヒロインに自分を擬することに集中し、「一種の歪んだ《超人思想》のかたちをとった」と。
だからA少女の自作「バトル・ロワイヤル」では、タメライを見せた同級生を軽蔑の念こめて容赦なく殺害する非情な主人公の「力」に感情移入しておるのや。と言うことは、A少女には、作者の「寓意」はオロカ、「殺し合い」を仕掛けた「当局」への正義派少年少女の逆襲、という作者の正義派ドラマ設定も届いていなかったんちゃうか。
まァ、そんなワケで、A少女のセイシン鑑定が、アリキタリのDNAや家庭状況や友人カンケイなどの検証だけではなく、「インタネット」、「バトル・ロワイヤル」へのA少女のエゴ投入角度、深度などを綿密にブンセキする方向で実施されることを、冀う。は。