U-MAIL(ウンコ通信) 2004/12/16-2
「ワメ的社会大評論」
《ひょんと死ぬワカモノ》
えー、ちょっと時間が経ってしまったが、11月1日の《天声人語》に、イチャモンと言うか、納得行かないものを感じたのや。
イラクで人質となって殺された香田証生さんのコトバに「意外なほど心の奥深くを揺さぶられた」と《天声人語》子は書いた。
そのコトバとは、自衛隊撤退に自分の命がかかっていることを言い、「すいませんでした」と謝り、「あと、また日本に戻りたいです」と、独り言のようなツブヤキ。
そこから話は竹内浩三の「戦死やあわれ」(岩波現代文庫)にツナガる。その有名な一節「戦死やあわれ/兵隊の死ぬるや あわれ/遠い他国で ひょんと死ぬるや」を引き、「香田さんのツブヤキと共振する」と。
「何か明確なもの、たぶん名前のように、《生の証》を探し求めての旅だったのではないか。そして《日本に戻りたい》とつぶやいた時、その生が無残にも断ち切られた。不条理との思いが募る」と。
なんやこれは?「天声」としては洞察力に欠け、「人語」としては説得力足りぬ。
竹内浩三は一種早熟なブンガクの人であり、後述するが、有名なこの一節は、「戦場に立たされての感慨」ではない。透徹した予感による、一種のフィクションなのだよ、後に実際「戦死」したことは事実だが。あまりにも無意識過剰、単純な現代ワカモノの「ひょん」と比べるのは、オカシイよ。
むしろ、香田青年の死は、60年昔の、「きけ わだつみのこえ」の日本青年像との落差を指摘すべき。或いは、今年、イラクで戦死したアメリカ兵との相似を探るべき。
今は、あまり読まれて居らぬだろう。戦没学生の手記を集めた「わだつみ」は、「他国で/ひょんと死ぬ」だけでなく「無念を噛み締めて死ぬ」「ままよと自ら死ぬ」…さまざまなカタチの「青年戦死例集」なんよ。
戦死はすべて「不条理」と言えば不条理やんけ。ただ、「戦争」に「ノッピキならない戦争」(WAR OF NECESSITY)と「オチョッカイの戦争」(WAR OF CHOICE)があるように、 「戦死」にも「ノッピキならない戦死」と「オチョッカイの戦死」があるのやねん。
考えはイロイロだろうが、今や、「イラク戦争」は、ネオコン以外の誰が見ても「オチョッカイの戦争」やねん。「ベトナム戦争」も今から振り返れば、ドミノ理論などと言う赤色恐怖症に引き摺られた「オチョッカイの戦争」だったのや。
「第2次世界大戦」が「ノッピキならない戦争」だったことは否めないが、そのノッピキナラナサについては、連合側、枢軸側、それぞれに言い分がある。要は歴史のスパンの取り方次第やねん。ワメ等にも林房雄の「大東亜戦争肯定論」があるやんけ。
そこから見れば、冷血コイズミに引導渡されてしまった、香田青年には気の毒なれど、あれは矢張り「オチョッカイの戦死」なのだよ。自分としては「戦争」を、どうしても自分の目ン玉で見届けたかった、のだろうけど、そのモチヴェイションは「ノッピキならない」モノではなかった筈や。「なんでも見てやろう」の小田実とは、時代が違うのやねん。
戦争の実体験まるで持たないのが大部分、今の日本の政治家世代には想像しろと言ってもムリだろうが、「きけ わだつみ」世代の日本国民の「ノッピキならなさ」は、外側からの「国家強制力」だけでなく、単に今風に「洗脳」と呼べば済むようなものではない、独特の「自己暗示力」が内側からもハタライテ居たのだよ。
そして。ヴェトナム戦争はともかく、イラク戦争は、アメリカ政府がオッ始めた「オチョッカイの戦争」やねん。これに参戦した「一般アメリカ兵士」の「ノッピキならなさ」は、イカホドのものか。そこへ「オチョッカイ」の自衛隊送ったのは誰や?と言うハナシになるが、それは措くとして。
どうもハナシがオモクなって来た。あまりHPには馴染まぬナンヤカヤだが。タマにはイイだろう。マジな話をヤボに続ける。
ここで先ず、イラク戦争でのアメリカ戦死兵士の手紙をご紹介する。
「ヘラ鳥ウォッチング」
「I'M NOT AFRAID OF WHAT MIGHT HAPPEN」:11/12
「ボクは戦争恐れない、でも死ぬかもね」 〜アメリカ戦死兵士の手紙集〜
1)モーゼス・A・ラングホースト
ミネソタ州出身、海兵隊員、19才、両親への手紙:
3月13日
気持ち的にはゲンキだぜ。みんなでそれを確かめ合っている。ズーっとお祈りし続けてるんだ。お願い、そっちでも祈ってよ、「死の影の谷」にハマってる第3小隊の安全を。
3月15日
今朝は7時間半ブっつづけて警備塔に立った。その後、12:00から17:00までパトロールをやった。もうヘトヘトさ。でも元気。緊急食糧の入ったバッグ背負ってポンチョ着て、夜間用のゴーグル掛けなきゃならないんだ。ホントにキツイよ。
ボク等はモスクを調べ、怪しい廃駅を捜査した。住民たちは友好的さ。どこへ行っても、子供たちがゾロゾロついて来るんだ。
この前デンワした時、イラクはお前が想像していた通りか?って尋いたよね。想像通り、ニュースで見た通りだよ。センソーって感じはしないんだよ、今までの戦争と比べたら。
3月24日
そりゃ、愉快なことばかりじゃないけど、この経験はきっと自分のタメになると思う。ごく些細なことも、神の祝福と感じるようになった。とりわけ家族、友人、そしてミネソタの家。
4月6日
小銃で撃たれ死亡。
2)リンダ・アン・タランゴーグリエス
ネブラスカ出身、陸軍軍曹、33才、結婚する従兄へのe−mail:
5月14日
今日がその日よね、ワオ!アンタにピナツバターとゼリーのサンドイッチ作ってあげたのは、つい昨日みたい。
いつも一緒に育てられていたから、アンタの居ない時なんて考えられないわよ。ちょっとオカシイ関係ね?
アンタが身をカタメルなんて想像もしていなかったわ。でもレイチェルはイイ娘よ。可愛いし、才能あるし、第一に、アンタを愛してるわ。大事にしなきゃダメよ。出席出来なくてゴメン。でも此処の連中も、きっといつか、アンタみたいに幸せ掴めると思うわ。
覚えていてね、アタシはいつでもアンタの傍に居るわよ。目を閉じて、手を胸に当てて。ほら、アタシは其処に居るのよ。
7月11日
サマーラで、仕掛けられた爆弾装置で死亡。
3)クリストファー・ポッツ
ロードアイランド出身、陸軍軍曹、38才、2才の息子と妻への手紙:
1月?日
ハーイ、坊や、ハワユー?逢いたいよ、とっても。台所に居るパパを呼ぶ、お前の声が聞きたいよ。お前とママに料理を作ってやりたい。お前を抱きしめたい、それが一番。
お前とデンワでお話するのと、お前の描いた絵を見るのが大好きさ。今まで手紙出せなくてゴメン。ここじゃ1日が長いのさ。夜は4時間半しか眠る時間が無いんだ。この手紙書くために、ちょっと早起きしたんだよ。だってお前は自分宛の手紙が欲しいんだろ?
3月18日
ハーイ、いとしいオマエ。何から書き始めたらいいのか?その辺を歩き回るヤツ、眠るヤツ、こうして手紙なんか書いてるヤツ、ただジっと座ってるヤツ。
ナゼか知らないけど、何が起きようとコワクはない。もう一度キミに逢えなくなることだけがコワイ。
バグダッドに近付くにつれ、破壊された兵器がアチコチに見えた、テキのも味方のも。
土地のヒトたちは、道端でプラスチックの水差しに入れたガソリンを売ってる。道端には殺された仔羊がコロガってる。陽に照らされ、泥にまみれて、虫がタカってる。向こうの方では、人々が水浴びと洗濯をしてる。ゴミを漁ってるヤツも居る。
今日はデンワ出来るかも。オマエに逢いたくて、これを書きながら、もう目がウルウルだよ。
食堂のテレビ見てたら、昨日からそっちは雪らしいね。雪掻きを手伝いたいよ。気を付けてな。
砂漠を抜けての旅はそりゃヒドイもんだった。子供たちが、どっかからゾロゾロ出て来て水や食物をネダルんだ。埃が吹きつけ、着物はボロボロ、足は裸足。クルマの運転士もボクも泣けてきたよ。ボクらが此処に来ているのは、ボクらの子供たちが、こんな目に遭わないためなんだって話し合い、あとは二人とも黙り込んでしまった。
10月3日
タージで小銃弾に当り死亡。
ウム。ワメには、これらの手紙書いたアメリカ兵士たちも、根本的には自分の置かれた立場のツキツメがヨワイように思えるのだよ。香田君と変わらない。
それは、ひとつには、「テレビメディア」の過剰リプレイ放映によって、「戦争」乃至は「戦場」イメージが「日常化」され過ぎたセイちゃうか?だから、ウカウカと知ってるつもりの「戦争」周辺に赴き、「ひょん」と呆気なくコロサレてしまうのやねん。
それと、考えるべきは、30年前のヴェトナム戦争時のアメリカ兵士は「徴兵」だったことや。だから「戦争拒否」は「非国民の罪」であり、戦争反対の意志をツラヌクには、国外亡命するしか無かった。日本の「ベ平連」(ベトナムに平和を連合)は、その線上での反米運動だったのや。
現在のアメリカの「脱走兵」は、30年前とは事情が異なる。その殆どは、「愛国」よりも、「経済」モチヴェーションによる「契約志願兵」なのや。4年間の「契約」を終えれば、給料の他に、学費なども大幅な優遇措置が約束されて居るのだよ。ツマリ彼等は「NECESSITY」ではなく、経済的「CHOICE」の兵士なんよ。
「契約」で志願兵となったものの、「イラク戦争」従軍に対しては、「違法な戦争で相手を殺すのは犯罪。国際戦争法廷で裁かれかねない、その犯罪実行を拒否する」というのが、そのイイワケやねん。国家にとっても兵士自身にとっても「契約違反」なのや。
そこで、「契約不履行」で処罰されるのを防ぐために、カナダなどに「難民申請」するわけや。
ヴェトナム戦争当時のカナダ・トルドー首相は、10万人とも言われる「徴兵忌避・脱走」アメリカ兵を受け入れた。しかし今回、カナダ政府は、アメリカ政府に「イラク派兵」を拒否している手前もあって、「脱走者」の「難民申請」にはヘッピリ腰なのだよ。
ま、ワメとしては、小ブッシュのイラク戦争はモッテノホカだが、「契約」兵士の戦死に対しては、あまりシンパシーを感じないのだよ。もともと、アメリカには、南北戦争当時から、「カネを出して徴兵をパスする」というカネモチ特別待遇の歴史的習慣がある。その辺の事情はワッサーマンの「アメリカ史」に詳しい。
「契約兵士」はそのウラ側の構造なのやねん。つまり「戦争」を「就職」と同次元で捉える考え方。これは60年ムカシの「軍国少年」ワメの背骨にカスカに残っている「聖戦」感覚とはヒドク異質。ヒラタク言えば「戦争の堕落」やんけ。
ナンノカンノ言うより、ここで、久しぶり、直立不動のココロにて、「きけ わだつみのこえ」から、いくつかの「手記・手紙」をご紹介いたす。前述イラクで戦死したアメリカ兵士のナイーヴだが、ツキツメタところの無い手紙と比べてみて下され。
60年前の「わだつみ」の青年たちは、テレビ放映などによる、前以ての戦場イメージなど無い。いわば「目隠し」されたまま、「ノッピキならない」立場で戦場に赴いたのや。
「きけわだつみのこえ」 〜日本戦没学生の手記〜
1)中村徳郎 東大理学部地理学課学生。昭和17年10月入営。 19年6月比島方面へ向かい以後行方不明。25才。
2月20日(土)
学問が時世をリードするというのでなくてはならない。しかるに現在では学問が時世にリードされている。一体どうしたというのだろう。寒心に堪えない。
5月18日
《美術報国会》とやらいうものが出来たという。曰く報国隊、曰く報国団、曰く報国会と。何でも《報国》といった文字を冠すればよいと思っているらしい。大方《美報》もまた戦争の絵でも描きまくって事足れりとするのかもしれない。真の報国というものがどんなものか考えもしないで大言壮語している。
《ほうこく》でなくて《ぼうこく》であろう。
(急に外地出征が決定して出発し、途中門司市より両親に書き送りたる最後の書簡)
昭和19年6月20日午前8時
父上様母上様、弟へ。
今の自分は心中必ずしも落ち着きを得ません。一切が納得が行かず肯定が出来ないからです。いやしくも一個の、しかもある人格をもった「人間」が、その意志も行為も一切が無視されて、尊重されることなく、ある一個のわけもわからない他人のちょっとした脳細胞の気まぐれな働きの函数となって左右されることほど無意味なことがあるでしょうか。
ともかく早く教室に還って本来の使命に邁進したい念切なるものがあります。自分がこれからしようとしていた仕事は、日本人の中にはもちろんやろうという者が一人もいないといってよいくらいの仕事なのです。
その結果として、戦に勝って島を占領したり、都市を占領したりするよりもどれほど真に国威を輝かすことになるか計り知れないものがあることを信じております。
自分をこう進ましめたのは、モリス氏の存在を除くことが出来ません。氏は自分に、真に人間たるものが、人類たるものが何を為すべきかということを教えてくれました。(モリス氏は元一高講師、帰国後ロンドンBBC放送解説者)
いかに日本が特殊の国だからと自ら信じても、歴史の規定性から免れることは出来ないと思います。現在のような状勢が、(戦争には勝つと仮定しても)永い将来においていかなる状態も生むか、考えねばならないことです。
自分の場合、たとえ現在勲章などをもらわなくとも、歴史の永遠性の中に愛国者たる価値を、もし附されたならば、それで心から満足します。
もし私が「死んだ」というしらせがあったなら、自分の意志に反して敵弾に殪れたのではないと信じて下さい。戦闘惨烈を極めいよいよという時には自分自ら命を絶つことを肯定して自らの手で果すつもりでいます。
もう夕方になりました。準備にかからねばなりません。では元気で行って来ます。爪と頭髪とは出発の間際聯隊へ残してきました。
2)林 市造 京大経済学部学生。昭和20年4月12日特別攻撃隊員として沖縄にて戦死。23才。
(元山より母堂への最後の手紙)
お母さん、とうとう悲しい便りを出さねばならないときがきました。
晴れて特攻隊員と選ばれて出陣するのは嬉しいですが、お母さんのことを思うと泣けて来ます。
エス様もみこころのままになしたまえとお祈りになったのですね。私はこの頃毎日聖書をよんでいます。よんでいるとお母さんの近くにいる気持がするからです。
私は聖書と賛美歌と飛行機につんでつっこみます。それから校長先生からいただいたミッションの黴章と、お母さんからいただいたお守りです。
私はお母さんに祈ってつっこみます。お母さんの祈りはいつも神様はみそなわして下さいますから。
3)杉村 裕 東大法学部学生。昭和18年12月入団。20年7月10日、北海道千歳空港にて戦死。22才。
20年6月30日
車中にて。俺の特攻隊に行くに際しての心理状態。
私はただ立派な日本人として生きたいと思う。結局、それだけなのだ。娑婆23年の学問も考えてみれば惜しいともいえる。しかしそれらはその目的にではなくて、その各過程に価値があるのだと思う。だから俺は満足だ。
しかしもうしばらく生きていたいという気持ちもある。それを分析すると。
第1、どんなにつらくとも、どんなに苦しくとも生きていたいという生物に与えられた本能。
第2、もうしばらくこの世にあれば何か面白いこと、快ニュースがあるだろう。ヒョットして俺が今度戦争で死んだ最後の一人になっては馬鹿臭いという気持。
であろう。しかしこれらは、第一義的な理念の要請するよりもはるかに影が薄い。
4)木村 久夫 京大経済学部学生。昭和17年10月入営。 21年5月23日、シンガポール、チャンギー刑務所において、戦犯刑死。28才。
死の数日前偶然にこの書(田辺元《哲学通論》)を手に入れた。死ぬまでにもう一度これを読んで死に就こうと考えた。4、5年前、私の書斎で一読した時のことを想い出しながら、「コンクリート」の寝台の上で遥かなる故郷、我が来し方を想いながら、死の影を浴びながら。数日後には断頭台の露と消える身ではあるが、私の熱情はやはり学の道にあったことを最後にもう一度想い出すのである。
私の命日は昭和21年5月23日なり。
もう書くことはない、いよいよ死に赴く。皆様お元気で。さようなら。さようなら。
一、大日本帝国に新しき繁栄あれかし。
一、皆々様お元気で。生前は御厄介になりました。
一、末期の水を上げて下さい。
一、遺骨はとどかない。爪と遺髪とをもってそれに代える。
以下二首処刑前夜作
おののきも 悲しみもなし絞首台 母の笑顔を いだきてゆかん
風も凪ぎ 雨もやみたりさわやかに 朝日をあびて 明日は出でなん
ウム。ここでハナシ、冒頭の「天声人語」にモドル。
「不条理」というのは、こうした青年たち(ワカモノではない)に対して、初めて使えるコトバやんけ。
現代の日本には「不条理」なんぞと言う上等なものは存在しないのや。「不感症」ダラケやねん。
今や「平和」のシノニムになってしまった「日常」なんてものは、ソモソモ存在しない。「日常・平和」とは特殊な「特殊」であることに想像力が届かない。メディアが聴視率と引き換えにタレ流す、刺激だけ強い雑ニュース飽食の結果としての「不感症デブ」がテレビの前に寝そべってウツラウツラと日々を消費。それがワメらを囲んで居る景色やねん。
で、「天声人語」子が、不適切に引用した、竹内浩三の「ひょんと死ぬるや」について。
1986年に、ワメは「オノマトピア・擬音大国にっぽん考」なる一書を、《電通》から出版しましてん。一応その年の「全国図書館推薦図書」とかになり、気の利いた図書館には大体置いてありまする。
「気になる擬音語」を61ケ取り上げ、それにナンヤカヤ能書きつけたシロモノ。
その中の「ひょん」の項で、ワメは竹内浩三(1921〜1945)の「戦死やあわれ/兵隊の死ぬるやあわれ/遠い他国でひょんと死ぬるや」に言及しておりますのや。
チョイと長くなりますが、その項引用すると、それは、こう続く。
「だまってだれもいないところで/ひょんと死ぬるや/ふるさとの風や/こいびとの眼や/ひょんと消えるや/国のため/大君のため/死んでしまうや/その心や」
フィリピンのルソン島で23才で戦死(推定)後、40年も経ってから世に出た竹内浩三の詩:
「骨のうたう」
この「ひょん」は他のどんな言葉にも置きかえられない。戦死というものが、いかに不条理に、冗談のようにやってくるか、そしていかにバカバカしく鮮やかにイノチが消えてゆくかを、オソロシイほど実感させる。骨がらみのオノマトペだ。
竹内浩三はこの「ひょん」というヒビキの中に、すべてのワカモノの上にトンデモナイ災難が、アタリマエの顔をしてふりかかってきた時代の実感を見事に閉じこめた。
「きけ わだつみのこえ」に溢れる、歯軋りが聞こえてくるような残念無念、その唯一の解決である、自我をねじ伏せての哲学的あるいは宗教的諦観とはちょっと異なった角度から、竹内浩三は戦争と自分を見据えている。
詩人の直観による「時間の先取り」とでも言おうか、すべてにわたって未来を見透かし、現実があとからそれを追っかけて行くというのが彼の人生だったようだ。
伊勢に生まれ、マンガに才能を発揮した宇治山田中学から昭和15年日大芸術学部映画科へ進んだ彼は、伊丹万作に私淑し、詩、小説、シナリオなどを同人誌「伊勢文学」に発表していた。
中学3年の時のメモに
1)人間−中学−高校−帝大−サラリーマン−THE END
2)人間−中学−ブラブラ−マンガ−マンガ家−THE END
と書かれた人生ゲームの見取り図があり、彼のチョイスは当然(2)。まさに現代ヤングの指向するモラトリアム路線を半世紀ちかくも先取りしている。あのカーキ一色の時代のまん中で。
さて「骨のうたう」だが、実はこれは「きけ わだつみのこえ」のように死地に在って、差し迫った心情からリアルタイムで書かれたものではなく、戦死に3年ほど先立つ昭和17年、応召以前の時点で、ひとつの失恋めいた経験をキッカケに書かれたものであるらしい。
当時の青年なら等しく実感していた鼻先の確実な「死」が「失恋」によって忽ちのうちに「こいびとの眼や/ひょんと消ゆるや→遠い他国で/ひょんと死ぬるや」というカタチでアナロジカルに結晶定着したと見られる。創作のモメントというものは、そうしたものなのだ。(教会の天井の、ヒトツだけ消えている灯りから《唄を忘れたカナリヤ》発想した詩人も居てはるのや)
しかし竹内浩三の透視力は、この詩の後半部分にいたって読む者の背すじをさらにゾっとさせる。
「白い箱にて故国をながめる/音もなくなんにもなく/帰ってはきましたけれど/故国の人のよそよそしさや/自分の事務や女のみだしなみが大切で/骨は骨/骨を愛する人もなし/骨は骨として勲章をもらい/高く崇められ/はまれは高し/なれど骨はききたかった/絶大な愛情のひびきをききたかった/ガラガラドンドンと事務と常識が流れ/故国は発展にいそがしかった/女は化粧にいそがしかった/ああ戦死やあわれ/兵隊の死ぬるやあわれ/こらえきれないさびしさや/国のため/大君のため/死んでしまう/その心や」
ここまで見透かされては生き残った者は、なにも言えなくなってしまうではないか。竹内浩三も白い箱になって帰還したのだが、箱の中には骨のひとかけらもなかった。
平和に狎れたボクのココロのアパシーを、はげしく揺りうごかすのは、そのとびぬけた透視力、直観力たお同時にやはりそれを作品の中へ定着させたコトバ遣いの魔力というものだろう。
詠嘆、問いかけ、反語、さまざまなニュアンスを重ね持った切れ字風「や」。そしてノッピキならない「ひょん」。
ま、エラク長いハナシになったが、こう言うことやねん。
*人質としてコロサレた、現代ニホンのワカモノ、香田君。
*イラクで戦死したアメリカ青年連。
*「きけ わだつみのこえ」の日本青年連のノッピキならなさ。
*そのノッピキならなさを逆手に取って、未来をワメらの足元まで照射した竹内浩三。
香田君とその竹内浩三を「ひょんと死ぬるや」だけで安易に結びつけた「天声人語」に、「カチンと来た/あわれワメのココロ/お分り頂けるや?」