U-MAIL(ウンコ通信) 2005/07/11-2 


えー、サダム・シンパも居るけど、サダムにフカイ恨み持つシーア派も居てはるのや。1982年にサダムの暗殺計画を立てて、失敗した此処ドゥジャイルでは、その際のサダムの残虐な報復をめぐっての裁判が開かれる。


「TRIAL MIGHT PROVE BALM FOR SCARRED IRAQI TOWN」:07/04

「サダムへの恨み骨髄の町」 ジョン・F・バーンズ

(イラク・ドゥージャイル発)

1982年7月、此処ドゥージャイルで、治世3年目のサダム暗殺計画があった。それは失敗し、報復としてサダムは少年を含む160名のシーア派住民を処刑した。その他に200名が行方不明。

「此処でその裁判が開かれることはイミがある。未だにサダムを一種の神と思っている人々が居てはるからや。その悪業をトコトン暴いて欲しい」暗殺失敗で7人の兄を処刑されたシーア派の住民アリ・ハジ・フセインは、そう言う。

今回のドゥージャイルでの裁判が今後の裁判のモデルになる筈。

23年前、まだイラク全土の掌握を果たしていなかったサダムは、75000人の人口を持つ、このシーア派の町に乗り込んで来た。シーア派でイランとつながるこの町は、イランとの戦争始めていたサダムを敵視して居ったのや。サダムからすれば、スンニ派地域の中にシーア派飛び地として存在している、ドゥージャイルと、隣接の町バラードを敵視して居った。

23年前の夏の午後、ドゥージャイルに入って来たサダムは町の北側の棕櫚林の木陰から銃撃を受けたのや。直ちにサダム護衛隊のヘリが反撃を加え、1500名の住民が逮捕され、サウディ・アラビアとの国境に近い、旧英国要塞だった刑務所にブチ込まれた。最悪の設備の刑務所で、女子供、乳幼児も含め、多くが病死した。143名が絞首刑を課せられた。

暗殺計画から何週間かの中に、棕櫚林と果樹園の破壊が始められ、25万エーカー以上がブルドーザーでトコトン均されたのや。

今、サダム像などは取っ払われ、犠牲者のメモリアルとして90年代半ばに植えられたナツメ椰子がこの町のトーテムとなって居る。前述の、7人の兄を殺されたフセインさんは椰子の葉を撫で、ほほ笑みながら言う。「この樹のように、イラクは再生するのや。まだ始まったばかりだが、サダムが裁かれ処刑されてしまえば、このドゥジャイルの町も、復活するのやねん」


かつて世界を支配したイギリスが中東でムセキニン恣意的に引いた国境線が、シーア派を分断するカタチでイランとイラクと言う2ツの国モドキを作り出したわけや。それを強引に強権国家にしたサダムがツブサれ、結果として今、イラクの自立が危なくなって居るのやで。どーして呉れはりまんのや、ブレアはん、エリザベスはん?


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