U-MAIL(ウンコ通信) 2006/08/03-2
えー、サツバツとした軍事大国間の駆け引きにはイイ加減飽き申した。ここでヒトツ、ガラリと話題を変えて、あのコソヴォから文化人類学的なレポートを1本、ご紹介致そう。
「KOSOVORITEBINDS TWO VILLAGES」:08/01
「コソヴォの村のヨイ子の《割礼》祭り」 ニコラス・ウッド
(コソボ・ゴルニェ・ルビニェ発)
この一風変わった村の住民を、バルカン民族の網目の中に仕分けるのはムズカシイ。
彼等は国際的管理の下で、コソヴォの支配を競う中心民族、セルビア人でもアルバニア人でもない。多分ボスニア人と呼ぶしかないだろう。スラヴ語を話すイスラム少数民族である彼等自身がそう称するように。
しかし、此処で使われるコトバはセルビア語とマケドニア語の混合、それにトルコ語がチョビっと入って居て、ボスニアを含め、バルカンの他のどのコトバとも違う。そして、ゴルニェ・ルビニェの慣習は、隣村ドニェ・ルビニェとともに、コソヴォの他のどの人々とも似て居ない。
マケドニア国境に近いシャー山脈の上にあるこの2ツの村の住民たちは、5年毎に、一緒にメズラシイ祭礼を行なう。イスラムの通過儀礼の一種としての祭礼。3日間、3000人が此処に集まって、祝い、歌い、踊り、レスリングに似たトルコの伝統的スポーツを行なうのや。人種民族によって細分化されたこの地域で、ゴルニェ・ルビニェの祭には、セルビア人もアルバニア人も、そしてコソヴォから亡命した人々も、遠くスイスやドイツからやって来るのや。
この祭りの特徴は、これが《割礼》のセレモニーであることや。祭りの一日、主催村落の5才以下の男の子を集めて、オチンチンの包皮を切るのやねん。今年、ゴルニェ・ルビニェの村では111人の男の子が《割礼》を受けた。(ドニェ・ルビニェの祭りは来年)
そもそもの謂われもハッキリしないほど古いこの伝統的慣習は、村の住民たちにとってはこの土地のアイデンティティを象徴するもの。「これはワレワレに、団結心を与えて呉れる」今年、甥っ子が《割礼》を受けた村のジャーナリスト、ラフィク・カシの言。
ドニェ・ルビニェからズッパ渓谷を越えてやって来たザベル・カプラーニは「男の子を持っている親たちは、何年も前からこの祭りの準備をする。オレたちの偉大な伝統なのさ」
ある親たちは、子供たちを村のクリニックで《割礼》受けさせる。今年は土曜日1日で、2人の外科医が、局部麻酔で、24人の男の子のオチンチンを切ったのや。
しかし、大部分の親たちは、腕の良いザルフィカール・シシュコに手術を任せる。69才のこの男、普段は近くの町の床屋なのだよ。彼は子供たちの家に往診して、ひとりアタマ32ドルで、麻酔ナシの手術を行なう。子供たちを抑えるために、真っ赤なエプロン掛けた武骨な助手が2人、付き従う。メスとヨードチンキと術後の消毒用パウダー準備したシシュコは自信に満ちた手つきで、9時間で87人の男の子のオチンチンを切ったのだよ。
家から家を回る間、シシュコは一言も喋らない。沢山の人が話し掛けて来るけど、「ナルベク早いとこ終えたいのだよ」と。村人は、一日で《割礼》をやってしまう理由をカンタンに説明した:ビンボーのセイと。「みんながオカネを持っていないヒドイ頃からの慣習だよ」とジャーナリスト、カシは言う。「みんなが一緒になって、なんとか賄うのさ」
こんな大勢のお祭りが何時から始まったのか、誰も知らない。でも第1次世界大戦のキッカケになった1912年から13年のバルカン戦争時には中断されたことがあったと。
かつて、ズッパ渓谷のイスラム系ボスニア人の村々では、この祭りが盛大に行なわれていた。しかし今では、ゴルニェとドニェの村だけが、この慣習を保って居るのや。
どの家も、様子は全く同じ。シシュコは従者と若いイスラム僧を引き連れ、入って来る。隣の部屋では、母親、祖母、伯母、姉妹たちが、金の刺繍を施した純白のドレスを着て、オチンチンの手術が終わるのを待ち受ける。
手術が終わると、外ではジプシー楽団が演奏を始める。親戚たちは床やベッドに横たわっている件の少年に向かって押し掛け、祝金を贈るのや。
痛みからの叫び声と楽団の音楽が、途切れ途切れに聞こえる。カシは言う「ワレワレの神への信仰が子供たちに、痛みに耐える力を与えるのだ」と。
誰もシシュコの腕前を批判する者は居らぬ。「彼の方が外科医よりウマイ」ドニェ・ルビニェからやって来た建築現場監督イブラヒム・ビリバーンは言う。バエラミ家の23才の母親はシシュコが家に入って来て、生後30ケ月の彼女のムスコに近付くと苦悩の表情を見せた。頬に涙を流し、彼女は啜り泣く。「どうしたらイイのわからないの」しかし83才の義父アドゥヴィ・バエラミは遮って言ったのや。「あれは嬉し涙なのじゃ」