U-MAIL(ウンコ通信) 2006/11/07
《ワメ的時事大評論》
「思慮の足りないTVのイジメ告発報道」
えー、どっかオカシイ。イジメ受けた子供が「遺書」書いて首を吊る。イジメ止められなかった校長・教頭・担任が3人並んで謝罪叩頭する。その「上部」の教育委員会の面子とのイタバサミで校長も首を吊る。その同じパターンが全国に伝染する。コレッテナニ?
モンダイを一刀両断に整理致す。
1)先ず、現在の子供たちの置かれている社会状況を、ブロイラーの「巨大鶏舎」と考えよ。巨大鶏舎の狭いケージに押し篭められ、室内灯で生体リズムを管理され、機械的に飼料を食わされ、タマゴ産まされる鶏たちの間には、必ず「カニバリズム」と呼ばれる現象が発生する。狭いケージの中で、偶発的に選ばれた1羽が、周りの多数鶏から突っつかれて死ぬのだよ。まァ動物の生理的フラストレーションの解決方法だろうが、これは避けられない現象。だから、このショーバイの経営者は、コスト計算上、殺される鶏のパーセンテージを、ハナから「必要経費」として計上するのやねん。
でも、これは「イジメ」とは呼ばれないし、普通、鶏は「遺書」を書かないから、タマゴは、そんな暗いイメージに汚染されることなく、ワレワレの食卓に届けられる。ちなみに、青空飼育と呼ばれる平場飼いの鶏たちには、この現象は起こらないのや。
この事実が、一連の「イジメ」モンダイの底に「大分母」としてデンと在るのだよ。
2)次は、ニホン独特の上剋下権力構造や。これはカンタンに「明治後遺症」と呼ぶべきやろ。役人、官僚、公僕、名前は時に応じてイロイロだが、よーするに「責任」逃れ回路。日の丸ウシロダテに、多くは灯台の光に普く照らされて、「官」はマチガウことなどあり得ない、と言うトンデモナイ「国家無謬論」の致命的副作用やねん。
さよ、「官僚」のポストは、社会的機能ではなく、社会的地位を表すだけと言う暗黙の取り決めが、サーベル提げた明治薩長巡査以来、ハコモノフリークスの平成社会保険庁まで、エンエン続いて来て居るのやで。ウツクシイ首相殿、ナンとかせいや。
これ以上のセツメイは不要やろが。鶏は原則的にズラリならんだ左右平等線上で、偶然に被害者となるのだが、PTA・TVの告発で、回路を閉ざされた校長は、上下に張り渡されたロープで首括らされるのだよ。
3)番目。これが一番オソロシイのだよ。敢えて良識を逆撫で申し上げるが。
現代メカ逆手に、テメエを「主役」としてアピールする手管に狎れた現代ジャリ連。
ハナシちょいとズレる。この夏、世界サッカー予選とかで、日本代表がブラジルに破れた直後の中継テレビ画面。ヒタムキに走り続けた「ナカダ」が、ピッチに仰向けに倒れ込んだまま、起き上がろうとせなんだ、ナガナガと。「スター」製造にイッショケンメのテレビもそのシーンを流し続けた、ナガナガと。アレは八百長ちゃうんか?
倒れ込んだままのナカダのアタマのフレームには、自分の映像がバッチリ映し出されて居った、多分、おそらく、マチガイなく。
その夜、ナカダは、自分のウェブサイトに、「引退」決意を流したのや。ちょっと大仰なテツガク的メッセージを添えて。当然、翌朝のトップニュースやねん。
いささかアザト過ぎるけれど、メディアを私的に利用して、テメエのパワーを蓄電する「新・双方向テレビ」機能が、今、サカリなのだよ。「SHINJO」は、その典型、テメエとホッカイドーまとめて、経済効果バッチリやんけ。
ナカダとかSHINJOとかはイイ。利用できるものはトコトン利用するのはオトナのチエやねん。ただ、これをコドモがナゾルとコワイのだよ。
世間が、テレビが、「イジメ」とカッコに入れてしまった悪質なイタズラを受け続けたコドモが、一発逆転、乾坤一擲、テメエを主役に、相手を悪役に、変えてしまう魔法のテクダ。その道具は、テレビ。小道具は「遺書」。親もセンセイも親身になって呉れない「イジメ」。剣ケ峰の受け身に立たされたコドモは、一種の「自閉力」を究極のエネルギーに、テレビで覚えたシナリオ通り、悪役の実名書き並べた「遺書」を発信する。自分のメールサイトに流すのでは、伝達が早すぎて、身柄拘束されるオソレがある。「手紙」「ハガキ」という古典的メディア使ってTV局に届けるのが一番タシカやねん。オセッカイTVは、マチガイなく、これを世間に流して呉れる。それを見届けた上で、裏の納屋に入っても遅くはないかも。
ヨロシイカ、コドモはこの手法が、「誘拐」などにツキモノの「脅迫状」と同じ性質のモノだなどとは思わないだろう。でも、これは社会メディアを利用して世間を騒がせ、オノレが主役にシャシャリ出るための、リッパな「脅迫状」なのだよ。
さよ、両親もセンセイたちも、セキニン追求、セキニン回避などに、ムダな時間を費やすよりも、今後、このパターンを覚えてしまったコドモたちをこれ以上「脅迫者」にしないことに気を配らねば。テレビもコドモに利用されないようシッカリせいや。
4)番目。これもオソロシイ。「自殺」で「主役」を掴む、という逆転の発想が、実はワカイ世代にマンエンして居る一連の「テレビゲーム」の中から出てきて居ることや。これは、この時代病の外部に居るワメとしては、目ン玉ツムって象を撫でるがごとき作業だから、断言することは出来ぬが。ポイントを列挙すれば。
「選択」への狎れ。アナタもワタシも、人生ノッケに、「A」とか「B」とかを、上手く「選び」さえすれば、あとは「修正」も「創造」も不要、テメエの生涯はスベテ保証される、という錯覚の日常化。ワカモノのトカトカ言葉のモトは、この錯覚に汚染されたムイシキ領域。
ロールプレイ、と言うのか、画面上の主人公と自分を一体化させる時、さまざまな選択肢は用意されるが、あくまで、どれかを「選択させられて居る」という受け身のポジションに自分が置かれていることに全く無警戒なまんま、メカの中にテメエを没入させる。
ゲームの世界を指す「ヴァーチャル」と言うコトバ。このコトバは「事実」「虚像」正反対の2ツのイミを内包するのや。ゲームの主人公として「自殺」を選んでも、その半分は「虚」なのだよ。
ゴールが達成されても、されなくても、「ゲーム・オーバー」となれば、ボタンひとつで、再チャレンジ出来る世界。