U-MAIL(ウンコ通信) 2006/11/20
えー、「ゴムの兵隊」てコトバ聞いたこと、おありか?さよ、ワメも知らなんだ、「鉛の兵隊」って童話は読んだことあるけど。第2次世界大戦に関わるブラジル哀話、日本にもカンケイあるのや。
「ヘラ鳥ウォッチング」
「BRAZIL'S FORGOTTEN‘RUBBER SOLDIERS'」:11/15
「忘れ去られたブラジルの《ゴムの兵隊》」 ラリー・ローター
(ブラジル・リオ−ブランコ発)
1942年のとある朝、アルシディーノ・ドス・サントスは、母親に野菜を買うため、市場に向かって居た。その時、一人のブラジル軍将校が、立ち塞がって、こう言ったのや。「オマエに召集令状が出て居る、《ゴムの兵隊》として。オトコが必要なのだ。直ちに5000キロ離れたアマゾンに行って、連合軍のためにゴムの収穫当たるように。これは愛国的義務なのだ」
当時19才、石工の見習いだったサントスは、母さんは寡婦で、オレが面倒見なきゃならない、と抗議したがムダだった。1日50セント支払われる、戦争が終われば故郷へ帰るフリー・パスポートも受け取れる、これは命令だ。そう申し渡されてサントスは、その日の中に出発させられたのや。
戦争終わって60年。ムリヤリ《ゴムの兵隊》に仕立てられたサントスと何百人かの哀れなブラジル人は、なんと、未だにアマゾンに居るのだよ。ヤクソクが果たされるのを待ち続けて。年老いて身体も衰え、時間と当局の無関心と闘いながら、歴史的事実認証と補償金を手にするために。
「オレたちゃダマされ、見棄てられ、忘れられたのや」《ゴムの兵隊》の最大集合所だったアマゾン西方アクレ州の首都の、質素な木造住宅でのインタヴューに、サントスはそう答えたのやねん。「オレたちゃ、意志に反して此処へ連れて来られ、ジャングルにブチ込れた。そりゃヒドイもんだった。オレの一生はもう直きオワリだけど、お国はどーして呉れるツモリなのかね?」
そもそも。「ゴムの兵隊」計画は、アメリカとブラジルの協定によって生み出された。日本の真珠湾アタックに始まる攻勢で、その主要ゴム資源地マレーシアからシャットアウトされたアメリカのルーズベルト大統領が、当時のブラジルの独裁者ヴァルガスを説得して、数百万ドルのローンとクレジットと設備を与える見返りに、その戦略上のギャップを埋めゴムの生産を要請したのだよ。
ブラジル政府の記録によれば、旱魃つづきで貧乏な東北部から、5万5000人が、アマゾン地方に送り込まれたのや、ゴム栽培のために。その内の何人が、病気や猛獣に襲われて死んだのか、正確な数字は無い。しかし歴史学者は、日本降伏の1945年9月までにその半数が死んだと推定して居るのや。
「マラリア、黄熱病、脚気、肝炎、などで死んだ他に、毒蛇、赤エイ、豹などに殺された者も大勢居ったのや」今年86才のルペルシオ・フレーレ・マイアさんは振り返る。
その労働は苛酷で危険で不健康なものだった。夜中に起き出し、ジャングルの闇の中を歩いて、樹に筋目を付けに行く。そして陽が上がってから、カップに溜まった乳液を回収する。その白い樹液を火で焙って60キロの重さのボールに固める。その過程で多量の煙が労働者を失明させたり視力を低下させたりした。
殆どの人が、強制的に仕事に着かされたのだが、中には、これをカネ目当てのベンチャーと考えて自ら兵籍に入った者も居ったのや。今年82才のアラウホ・ブラガさんは、こう言う。「反抗的ワカモノだったオレは、世界を見てやろうと思ったのさ」そして政府のプロパガンダ「アマゾンはエル・ドラード(理想郷)、勝利のためのゴム園で働いてひと儲けしよう」に釣られたのだと。「オレは正式に軍隊に入ってヨーロッパ戦線に行くことも出来たのや。そしたらアメリカ軍と一緒にイタリア戦線で戦って国民的英雄になれたかも知れない。でもアマゾン行きを選んだのは、単純にカネが欲しかったからさ」
しかし、一旦《ゴムの兵隊》としてアマゾン行ってみると、扱いは違っていた。給料支払いは停止、全員宿営舎に押し込まれ、訪問者と会う権利も無かった。
「ヤツラはオレたちを市場のロバ並みに扱った」自前農業者として、未だに、このリオ・ブランコに近いジャングルで生活している89才のジャコ・サ・デ・ケイロスは言う。
「ゴム園のボスは、整列したオレたちの中から、まるで動物選ぶように、屈強な者を選び出すのや」
戦争が終わっても、アメリカの支援が無くなった他に変化は無かった。ゴム園のボスたちは、脱出者が出るのを怖れて、終戦のニュースを伝えず、多くの《ゴムの兵隊》はそのまま、ジャングルに留まって働かされて居たのやねん。
「1946年になって初めて、オレは戦争が終わったことを知った」とマイアは言う。「ラジオも無かったし、完全に外部と切れて居ったのや」
終戦を知った兵隊たちは、出発に当たって給料支払いを求めたが、ゴム園のボスは、お前たちには、食物、衣服、設備などに費用が掛かって居る。それはお前たちが生産したゴムの値段では足りないとして、その負債を完済するまで留まって働けとヌカシたのやねん。
カネも無く、帰る交通手段も無く、多くの《ゴムの兵隊》は、アマゾンに残るしかなかったのや。彼等は結婚し家族を養うため、ゴム園で働くか、土地を持たないビンボー農業を営むかした。無視されたまま、何十年が過ぎたわけや。
「あのブラジリアが、どうやって建設されたか知ってるかい?」《ゴムの兵隊組合》長のホセ・パウリノ・ダ・コスタは言う。「アメリカはブラジルに多額のカネを払った。でもそれは《ゴムの兵隊》ではなく、他のプロジェクトに使われたのだよ、なんて不公平な」
1988年に、ブラジルは新憲法を批准し、《ゴムの兵隊》は月350ドルの年金を受けられるようになった。しかし必要な書類を提出出来ない者は、その権利が無い。
しかし《ゴムの兵隊》の受け取る年金は、ヨーロッパ戦線に従軍した兵士の1/10だ。2002年にアマゾン州の議員が、《ゴムの兵隊》にも同額の年金を支払う法案を提出したが、委員会で止まったままだ。
「独立記念日に、ヨーロッパで戦った兵士たちが軍服でパレードするのをテレビで見ると、哀しくユーツになるぜ」マイアは言う。「オレたちだって、戦士だったのや。アメリカを含めて、みんなオレたちのオカゲやんけ。オレたちが作ったゴムが無ければ、あの戦争に勝つことは出来なかったはずやねん」
ウム。あの大東亜戦争が終わった時、ブラジルに、日本が勝ったと信じて疑わない日本人が居たことを思い出すよ。当時のメディアに《勝ち組》と呼ばれた人達。《ゴム》ではなく、《菊の兵隊》《日の丸の兵隊》として国策的に、中南米に送り込まれた人達。中にはハナシと違って苛酷な生活が待っていた場合も多く。生き残った人達の国家にたいする補償請求は、この国でも無視されて居るのやねん。